変わってしまったもの
ボンジュー ムッシュー サバ⁉︎
私の出身地、実家は兵庫県神戸市灘区というところです。
母親の手術がありプライベートと仕事を兼ね一人で帰神しました。
昭和の終わりの年、私は東京に生活基盤を移しました。
現在は仕事が東京 住まい神奈川県横浜市早いもので関東での暮らしの方が長くなってしまいました。
阪神淡路大震災
当時実家は奇跡的に残りましたが 廻りは惨憺たる状況でした。
今でも街並みはそれほど変わった感じはしませんが やはり高層マンションや新しい家が目立ちます。
昔から住んでいる人達の多くは比較的被害が少なかった西の方に引っ越しされたり、お商売を廃業した方も多く 知り合いの家があったところには別の表札がかかっています。
区内の人口は震災前とほとんど変わらないようですが 出身の中学校は私が通っていた時と較べ3割以上生徒さんが減っています。
実家の前は通学路になっていて 以前は朝夕はとても賑やかでしたが 子供たちが少ないだけでなく行き交う人自体も減った感じるので町全体が暗く、寂しい感じがします。
街の中心地も区役所の場所が変わり、それに伴い人の流れも変わってしまいやはり私が過ごしていた時に較べて変わりました。
震災は23年以上前だからたとえ地震がなかったとしても状況は今と同じだったかもしれません。
自然の恵みと環境
神戸という街は山と海がとても近い街です。当時小学生だった私は、自転車で海釣りに行ったり山に水晶を探しに行ったりしていました。それほどの近さなのです。
19世紀開港以来 その利点で海外からの原材料の輸入と外国文化の流入と影響 製品の輸出を生かし造船 製鉄 機械工業などの重工業などで栄えていました。(華麗なる一族のモデルといわれています)
plaza.rakuten.co.jp
引用元:Rakuten Blog 伝説のうどん さん
地場産業
その環境からゴムを原材料としたタイヤ(住友ゴム ダンロップタイヤ) ゴム靴( ケミカルシューズと呼ばれていました)や スポーツシューズのオニツカタイガー(現アシックス) 真珠加工などが挙げられます。
自然からの恩恵
六甲山系からの綺麗な水を生かした 灘という清酒産地と酒蔵。水が商品として当たり前に販売されるよりはるか以前 神戸の水は腐りにくいとして外国船へ水も売っていました。 それは私の友人の実家が生業としていました。(残念ながら神戸市民の水道水は大阪、淀川からの水です )
ファッション都市としての背景と環境
第二次世界大戦以前から 神戸市の東側は神戸、大阪で成功した関西財界人達の豪邸が立ち並んでいましたし、外国人の居住区も各地域にあり 洋菓子屋 やパン 、コーヒー、 家具など 外国文化をどんどん取り入れていきました。
洋服という分野では そういう富裕層や外国人に向けて海外から生地を輸入し 外国人から教わったり自ら修行した技術の仕立屋さんが神戸には多くありました。
やがて発展していった生地輸入商はそれから洋服製品の輸入を始めそれがまた受け入れられたいったという背景というか下地があったのだと考えます。
戦後は 日本人のサイズにあった国産のアパレルメーカーが多く生まれました。それがまたひとつの基幹産業となり ファッション産業も地場産業になったのではないかと思います。
www.yomiuri.co.jp
引用元:YOMIYURI ONLINE
私が学生の頃アパレル業界の仕事は、超ハード(今はこんな労働環境は通用しないですが)だが 給与水準は他の業種と較べても高かった。アパレル企業のいくつかはその当時神戸では学生人気企業トップだった事もあったように記憶しています。
更なる発展と成長を目指した人工都市
豊かになり人口も100万人を超え政令指定都市となり 今度は住環境を考えたのだろうと思います。
山と海が近い街、だから土地が少ない。
神戸の山々を切り開いて住宅地を作り商業施設、学校を誘致し街を作っていきました。
次にはその山の土を利用して海を埋め立て、新しい土地を作り企業やホテルを誘致し遊園地までつくり博覧会も開きました。
そうやってどんどん新しい街を作っていきました。当時はその官とは思えない自治体経営から神戸市株式会社とまで呼ばれていました。
私感ですが、神戸という街の特殊性がそうなったのではないかと想像しています。
とんでもない金持ち、社会的に力のある人間、 外国人 、アウトロー 、そして官の人達。 それぞれが、横の繋がりで濃密な人間関係を持っていたと思います。
他の政令指定都市と較べると、あらゆる意味でとても狭い街だと思います。
その利害が一致したから発展していったのではないか思いますし この右肩上がりは永遠に続くと信じていたのだと思います。
私自身は、そんな神戸がなによりも好きでしたし誇りに感じていました。
「首都が東京? 地方の儲けを吸い上げているだけやちゃうの?」と思っていて 生涯をこの地で過ごすつもりでした。それが…それが…
人工都市のその後
人工的な美しさで作った街は 年月が経つとここまで醜くなるのかと思いました。
一見オシャレに見えますが、何か張りぼてのような無機質な印象を強く感じてしまいます。
山を切り開いて作った街。 埋め立てた街。 子供は減り老人が増えていく 景気が悪くなり 税収が落ち 予算も取れない 草はボウボウ 外国の街を真似て作った石畳はガタガタ、車椅子で進むのも一苦労です。
街の美容院やブティックだった看板は接骨院や デイサービスなどの介護の事業所に変わってしまいました。
新しい目を惹く建物は、介護施設ばかり。商業施設は空きテナントだらけで人もいないのにエスカレーターが動いている… 人がいないからテナントも入らない お店がないので人は来ないという悪循環。
パリのおやじの言う通りだ… ヤバイ
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ふるさとは遠きにありて思ふもの
夕方 酒片手に実家近くの公園へ行きました。子供の頃は遊び場、震災後は、仮設住宅。今は綺麗に整備されていますが人は誰もいません。
まわりの景色を見ながらふと思いました。
私は東京に来てから 神戸には税金も納めるわけでもない他県市民。
故郷の震災復興を支援したわけでも無かった。
故郷には先人達がしたような貢献したわけでは無かった。
「私自身が変わったんだ」
「ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食かたゐとなるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや」
引用元:室生犀星「小景異情」より
メルスィー オバ!
créme la de crème
TOM